「こちらあみ子」という、特性を持つ女の子が悪気なく身近な人の心を壊していく様を描いたお話。
小学校~中学校時代を描いていますが、あみ子はもちろん、周囲の人の気持ちを想像すると心が痛くなる展開です。
なかでもあみ子に非常に執着される“のり君”の気持ちを想像すると、心臓がぎゅっと苦しくなります。
なぜなら、私も子供の頃に同じように特性(障がい)を持つ異性に執着された経験があるからです。
実際にあみ子のような好意を向けられたら耐えられない
小学校6年間同じクラスだったその男の子は私のことが好きとのことで、まるで作中のあみ子のように付いて回られていました。
「好きなんだって~!!」
と、のり君がクラスメイトにからかわれていたように囃し立てられたこともある。
遠足等なにかペアを組むことがあれば、高確率で私とその子がペアを組まされる。
そのうち、周りも「あの二人はペアだから」と暗黙の了解のように。
私の工作を壊されたことがありますが、その理由も「私のことが好きだから」。
悔しくて学校で泣いてしまったけれど、先生はそのことで男子生徒を怒ることはありませんでした。
もちろん、諭すこともなかった。
作中のあみ子もそういう扱いを受けているシーンありましたよね、「どうせ言っても分からないから」みたいな。
「我慢しなさい、あの子は我慢できないから」
「我慢できる方が我慢しないとしょうがない」
そう言われてきました。
「助けてあげないと」
「○○君はあなたがいいんだって」
と言われ、表向きは従っていたけれど、内心はとにかく嫌だった。
同時に、その子のお母さんがいつも疲れた顔をしていて、私が一緒に下校すると嬉しそうにしてくれるのも気づいていた。
それを裏切ることは小心者の子どもには出来なかった。
その子は中学校は別の学校へ。
それで解放されたと思ったら、高校入学後、帰りに待ち伏せされるようになりました。
避けようと時間をずらしても、待ち伏せている。
家も近かったから、ずっとついてきて話しかけられる。
そのまんま、作中ののり君状態。
ある日の帰り道、いきなり手をつながれて、「自分たちは結婚するんだ」的なことを言われました。
その瞬間心の底から怖くて、必死に「二度と私に話しかけないでくれ」というような事を言って逃げました。
それからも待ち伏せはあったけれど、学校を出る時間をかなり遅くする日々を送るうちに気づけば待ち伏せはなくなりました。
あののり君への執着は「あみ子の純粋な好意」的に解釈されることもあるのでしょうが、実際にああいう好意を向けられるという現実はとてつもない恐怖だと私は思っています。
のり君があみ子を殴った理由
しけったクッキーの件や今までも付きまといが積もり積もった結果は、「怒り」ではなく「恐怖」だったのではないでしょうか。
あの執着のきっかけは、ただあみ子の目の前で「こめ」ときれいな字を書いた、ただそれだけ。
あみ子母の習字教室に通っていて、あみ子が入ることを禁じられた“赤い部屋”で、あみ子が覗いている時に字を書いていた、それだけ。
ただそれだけで始まった執着、そんな怖いことってないですよね。
「恋とはそういうものだ」と言われればそうなんだけど。
なぜ自分なのか?ほかの人でもいいではないか。
何か悪いことをしたわけでもないのに。
誰だって、本当は誰かを殴りたくなんてない。
しかし、執着から逃れられないと感じた時の絶望からくる恐怖は相手を打ちのめさない限り終わらないという気持ち。
それが発作的に湧き上がってしまったことは、罪なのでしょうか。
もちろん殴るのはダメだけど。
「実は引っ越すからもう会えないんだ」と殴る前に言われていれば、殴らずに済んだのかもしれないですね。
世界から無視されてきたあみ子にとって、のり君が「顔面を殴ってくれた」というのは、世界があみ子にアンサーをくれた瞬間だったのだろう。
歯の抜けた凸凹を気に入って差し歯も作らない。
さきちゃんにもいくらでも見せてあげるその暗闇。
しかし、これだけ執着していたのり君のことも、「ここからずっと遠くの家に住んでいたころの話だから、もうほとんど忘れてしまった」となる。
きっとのり君の心には重くのしかかり続けるであろう事件は、あみ子にとってはそうではない。
「誰もがあみ子だった」というけれど
映画「こちらあみ子」の紹介文を引用します。
まっすぐに生きるあみ子の姿は、常識や固定概念に縛られ、生きづらさを感じている現代の私たちにとって、かつて自分が見ていたはずの世界を呼び覚ます。
観た人それぞれがあみ子に共鳴し、いつの間にかあみ子と同化している感覚を味わえる映画がここに誕生した。
私はどうしてものり君に共鳴してしまい、あみ子と同化している感覚は味わえませんでした。
鳩の巣が投げられるシーン&あみ子がおばあちゃんの家に置いて行かれるシーンでとてつもなく悲しくなってしまったのが、あみ子に一番共感したシーンではある。
ラストに「大丈夫」と言ったあみ子に幸せになってほしいと願ってしまいます。
あみ子だけでなく、その家族にも。
私にも無自覚に人を傷つける子供特有の純粋さを持っていた頃はきっとあった。
子どもは純粋かつ残酷だから。
こどもは自分の残酷さを受けて返ってきた世界からの反応を積み重ね、自分が出来ていく。
特性を持った人が全員誰かを常に傷つけているわけではない。
人間だれしも発達の凹凸にグラデーションがあって、色んな人がいるから面白い。
世界からきちんと応答してもらえていれば、あみ子はまた違った未来があったのではないでしょうか。
今なら解るけど、小学生時代の私も、「嫌だ」と応答したら良かったのだと思う。
応答することは悪いことではないんだから。
昔の私も、諦めてトランシーバーのスイッチを切った側だったんだろうなと「あみ子」を見て思います。
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