【映画:メイジーの瞳】「親は自分を見ていない」と子供が知る時

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メイジーの瞳」の主人公メイジーは6歳の女の子。

勝手な両親により、離婚前も離婚後も振り回されています。

引き込まれて考えさせられるストーリーもそうだけど、映画中のファッションが可愛すぎて一時停止しまくってました。

メイジーのお部屋のインテリアや、手作りの王冠、赤い服。

そのセンスにしびれると同時に、物語は進行していきます。

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あらすじ

美術商の父親とロック歌手の母親が離婚し、6歳の少女メイジーは2人の家を10日ごとに行き来するように。やがて、父親はベビーシッターと、母親はバーテンダーと再婚。自分の事で忙しい両親はそれぞれのパートナーにメイジーの世話を押しつけるように。そんなある日、母親がツアーに出る事になり、メイジーは夜の街に置き去りにされてしまう。

movie walkerより引用

親の身勝手さと子供の心の内側について考えさせられる内容です。

元は「メイジーの知ったこと」というヘンリー・ジェイムズの小説。

ただ古い小説のため、時代背景等は現代に合うよう変更されています。

メイジーの両親、喧嘩激しすぎ

相手への罵りもメイジーの目の前だろうがお構いなしです。

アメリカって子供の前で親が怒鳴りあうのも虐待になるんじゃなかった?

もちろんメイジーはばっちり聞いていて、しかし特にこれといった反応も示さない。

メイジー母のスザンナは、メイジーに父親のことを愚痴りまくる。

「あなたのパパは最低の奴よ」と。

子供は、特に小さいうちは親の言動を「自分のせい」と感じてしまう。

感情的に怒鳴られても「自分が悪かったから」

親の仲が悪いのは「自分が上手く立ち回らないから」

そういう「親の態度は自分のせい」という心理状態から抜け出したきっかけって、いったいなんだったかな。

離婚後、メイジーを通して互いを見ている両親

離婚後の両親の言動もめちゃくちゃ。

「10日ごとにメイジーの面倒を見る」と裁判所で決められたのにも関わらず、お互いにお迎えをすっぽかしたり平気でする。

メイジー母のスザンナが最初お迎えに行かなかった理由は、どうやら元夫のビールがスザンナのお迎えを嫌がったかららしい。

(「私が迎えに行くのを拒むのはよくて、自分が迎えをすっぽかすのは違反にならないなんておかしい」ということを裁判所(弁護士?)に電話して激怒するシーンから)

でもそれって「メイジーを思っての怒り」じゃない。

ビールがスザンナの再婚相手に会った後に「あんな若いやつはスザンナの趣味じゃない」みたいなことを馬鹿にした風にいうシーンがあった。

スザンナから送られてきた花もメイジーに伝えずに捨ててしまう。

(10日後にはメイジーに会うのに、わざわざビール宅へメイジー宛に花を送るスザンナもちょっとあれだけど……)

二人はいつもメイジーを見ているようで、その向こうにお互いをみているだけ。

相手を困らせたいだけ、仕返しして一泡吹かせてやりたいだけ。

この人たち、本当はお互いのこと大好きなんじゃないかと思ってしまった。


子供にだって意思はある

メイジーの両親(スザンナ&ビール)は別居や離婚についてメイジーに話していない。

メイジーに知らせることなくいつの間にか離婚になる。

お迎えに自分自身がいかないことも伝えず、いきなり再婚相手が学校に来る。

再婚も10日ごとに行き来するルールも新しいシッターもメイジーに一言もなしに決まっていく。

「こうなることに決まったよ。だからよろしく」と言う感じ。

家族は「自分の人生の付属品」なのか

メイジーに対してだけではない。

ビールは再婚相手のマーゴに対して、自分の仕事の予定も共有しない。

いきなり「今イギリスにいるからよろしく」と言って子供の世話を押し付ける。

ビールにとってそれは当然のことという感覚なのかもしれない。

「相手にも意見があり、独立した一人の人間」という意識がスザンナとビールには著しくかけている。

特に、自分に近しい人に対して。

鍵をなくして部屋を閉め出されたマーゴが言うこのセリフに集約されています。

「他人を利用するなんてひどいわ」

「夫の名前しか居住者名簿にないから、私は存在しないのよ」

もちろんそれはビールだけじゃなくスザンナも同じ。

再婚相手のリンカーンに対しての扱いは、人格のある人間扱いじゃない。

メイジーと仲良くするリンカーンに対して言うのは「娘に取り入ろうとしている」

違和感しかないセリフです。

何かあるたび感情的に当たり散らす。

二人とも再婚相手に対して「家政婦・子守」や「自分に都合のいい行動」を当たり前のように押し付ける。

相手の人生を自分の人生の付属品として扱う。

再婚相手に対し、「ありがとう」「ごめん」も映画の中では一度も言わなかったように思う。

人は自分の思い通りに動くために生きているのではない。

相手を尊重せず、都合のいい未来を一人で思い描いてもその通りになんていかない。

それは子供だって同じなのです。

疑似家族と本当の両親

終盤、マーゴ、リンカーン、メイジーは友達のような疑似家族として過ごす。

楽しくゲームをし、料理を作り、海で遊ぶ。

その関係は「sorry」も「thank you」も素直に出てくるものでした。

きっと周りの人から見たら普通に家族に見えていたことでしょう。

でも幼いメイジーが求めているのは「両親が自分を見てくれること」。

両親が与えてくれない物を他人が与えてくれることにどんな気持ちでいるのかと胸が痛む。

心安らぐ環境ではしゃいでいるように見えるメイジー。

この3人での疑似家族としての暮らしは期限付きのもの。

遠くない未来、メイジーは母親の家で暮らすことになるでしょう。

(ビールは結局メイジーを置いてイギリスへ行ってしまうため。)

本当の「家」はどこにあるんだろう

きっとメイジーはいつも自分がたらいまわしにされていることに気づいていた。

父親は自分との生活を捨てて英国へ行き、母親はツアーに行って取り残される。

心理的には「両親に捨てられた」ようなもの。

マーゴにもリンカーンにも会えず、知らない家で目覚めた時初めて涙を流して言う。

「お家に帰りたい」と。

メイジーのお家はいったいどこなのでしょうか。

その後のマーゴ・リンカーンと過ごす海辺の家ではない。

何があっても自分を捨てない親がいて、その親は自分のことを見てくれる、安心して過ごせる家。

でもそんな家はもうどこにもありません。

子供を尊重するという事

普段は感情的に暴言吐きまくりのスザンナ。

しかしこの映画の冒頭は、スザンナが歌う優しい子守唄で始まるんですよね。

メイジーがマーゴ・リンカーンと過ごす海辺の家に突然スザンナが迎えに来た。

(しかも子供が寝てるかもしれない夜に。)

「あの二人にさよならしてきて」と突然言う。

メイジーの行動を本人の意思に関係なく唐突に決める。

ところが今まで従順だったメイジーがした決断は「明日はボートに乗る。今は行かない」

また感情的になったスザンナがメイジーに怖がられてようやく自分の過ちに気が付く。

そこで初めてスザンナからメイジーへ「sorry」が聞けました。

(私の見落としがなければ。)

「あなたが生まれる前こんな愛を知らなかった」

「昔のママはあなたみたい、そっくりだった」

そうして初めてメイジーを尊重してくれる。

このシーンが、私はとても心に刺さった。

おそらく両親とも、メイジーを愛しているのでしょう。

(父ビールの「イギリスへ一人で行く」という選択も、メイジーを置いて行ったのは捨てたのではなく愛情からだと信じたい。)

(スザンナもツアー前になんとかツアーを抜けたいとあがいていたし。)

「あなたのママは?」と聞かれたメイジーが「you」と言う。

メイジーが愛を求めている母親・父親はやはり一人しかいないのです。

だからこそ、ちゃんとメイジーと向き合っていってほしいと映画ながらに願ってしまう。

「メイジーの知ったこと」

劇中で印象的だったこと。

メイジーが両親に何かを聞かれると良く言っていた「good」「ah-ha」「OK」「I don’t know」という類のセリフです。

浮かない顔で、どうでも良さそうな感じで。

この映画の言語タイトルは「What Maisie Knew(メイジーの知ったこと)」

ラストで船に向かって走りだしたメイジーは、ただむじゃきに笑っているだけじゃない。

子供でいるという事は「親は完全だ」という幻想に取りつかれている状態だと思う。

メイジーはもう知っています。

親は完全ではなく、自分勝手で、いつも自分を見てくれるわけではない。

それでも親に期待してしまう。

自分をちゃんと見て欲しいから。

走っていくその先の未来がどんなものになるんだろう。

子供はある年齢までは親を求め、親を許してくれるでしょう。

でも、その柔らかい心を傷つけ続けてまで子供に甘え続けてはいけない。

親も変わっていかなければならないのは、どんな親子関係でも同じなのかもしれない。


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