「フロリダプロジェクト」と言うタイトルから連想する物ってなんですか?
キラキラと輝く美しいフロリダの夏の日差し、わくわくするサプライズ的な何かが始まる予感、などなど。
ディズニーランド計画の初期のプロジェクト名が「フロリダプロジェクト」だったと知っている方は、なおさら夢に溢れたイメージを持つはず。
しかしこの映画はそんなイメージとは異なるストーリー展開です。
「マジカルエンド」とうたっているけど、マジカルな展開で母子が幸せになるわけでもない。
ただ現実を見せつけられる。
誰かや社会が颯爽と主人公を助けてくれるわけでもありません。
映画中の母子の身を置く環境は話が進むにつれて、ジワジワと本人たちにはどうにもできない状況になっていく。
ただ、鬱まっしぐら映画ではない。
気が付かないだけで、二人を見守ってくれる人もちゃんといる(ただ、根本的に助けられる立場ではないですが)。
【以降、ラストまでネタバレあり】
あらすじ
ショーン・ベイカー監督のアメリカ映画。
貧困のなかモーテル暮らしをしている母子家庭の母ヘイリーと6歳の娘ムーニー。
(なぜ母子家庭になったかは描かれていない)
二人は貧困層が住み家にしているモーテルに住んでいる。
ムーニーは毎日同じモーテルに住む子供たちとイタズラ三昧。
やばめなイタズラの数々ですが、子供の世界を楽しんでいる。
隣のモーテルに引っ越してきたジャンシーという少女と親友になったり、管理人をからかって毎日遊びまわる。
母ヘイリーは娘との生活を守るため(お金を得るため)、徐々に抜けられない沼にハマっていきラストで行政がムーニーを保護するためにやってくるが……
当時のアメリカの社会背景
「なぜモーテルなんかに子連れで住んでるの?」と思うかもしれない。
アメリカではモーテル暮らしの貧困層がおおいらしい。
2007~2009年にアメリカで生じた「サブプライム住宅ローン問題」 =「住宅バブルの崩壊」。
あのリーマンショックにつながるバブル経済崩壊となりました。
サブプライムとはローンを組む際に信用の低い低所得者層の人たちのこと。
そのサブプライム層(低所得者層)でもローンを組んで家を買える制度が「サブプライム住宅ローン」。
その制度は「下層から搾り取る」ような制度だったのだけど、制度の崩壊と同時に家を失った低所得者層がたくさん発生。
そしてまっとうに部屋を借りるよりはるかにハードルの低い「モーテル暮らし」をする人が激増しました。
(保証人とか要らないしね、ただモーテルなので安いとはいえ割高。)
日本でもネカフェ難民と言うけど、そんなイメージなのでしょうか。
夢の国の隣に広がる現実
フロリダと言えば夢の国、「ディズニーランド」があります。
世界中から多くの観光客が訪れ、美しい花火があがる。
「ディズニー」への切符を持つ人が、決して切符を得られないヘイリー&ムーニーたちとすれ違う。
残酷と言うか、これが現実なのでしょう。
そんな中、ムーニーは与えられた現実の中を友人たちと想像力とたくましさで毎日笑って過ごしている。
「自分の夢を叶えられる人」と「そもそも社会に居場所がない人」
映画中で印象に残っているシーンの一つに、新婚旅行に来たカップルが間違えて安モーテルを予約してしまったシーンがある。
新婦がいう。
「こんな場所に泊まるのはイヤ!」
新郎も言う。
「ディズニーランドに泊まるのが彼女の夢だったんだ、絶対叶えたいんだ」
新婦が絶対に泊まりたくない汚い場所だけど、ムーニーにとっては自分の生活の場。
そしてムーニーは、その場所(=現実)に留まらずに済むよう全力で交渉してくれる人もいなければ、ディズニー(=夢)という贅沢を叶えてくれる人もいないのです。
ムーニーの母親は母親失格なのか
髪色が緑でタトゥーもあり、見た目も言動もかなりパンク。
彼女は「店の客が性行為を求めてきたのを断った」と言う理由で解雇され、以降職につけていません。
押し売りをし、盗みをし、その価値も知らずディズニーのパス(腕輪)を観光客に安値で売りつける。
そのディズニーのパスの安すぎる転売費でも彼女にとっては大金で、ムーニーと「お金持ちだ!」とはしゃいで散財。
あげくに「性行為を断って店を解雇された」のに売春をする。
でも、彼女は絶対に娘を捨てようとしない。
貧乏のどん底にいても娘に当たり散らすことはしない。
「なんとかしよう」と違法な手段をとってでも頑張るけど、その動機はムーニーとの暮らしの維持。
なんでシングルマザーになったのかは描かれていないけれど、彼女が娘を大切に思っているのは間違いない。
(かなり奔放ですが)
娘の夢の世界を大切にし、笑顔で語りかける。
一緒に雨に打たれ、イタズラ仲間とともに世界を過ごす意味を知っている。
しかし、彼女のしていることは外部から見たら「虐待」ととられるもの。
彼女は「悪い母親」では決してない。
環境さえ、お金さえあれば。
でも、今の現実からムーニーを救い出してはくれない(救い出せない)のです。
ラストシーンの意味
涙なんて一度も見せなかったムーニーが、ジャンシーの前で涙を抑えきれず別れを告げに来るシーン。
今まで自己主張を全然しなかったジャンシーが、突然ムーニーの手を掴み走り出す。
と、そこからいきなり意味不明な展開に。
今までが徹底的に現実を描いていたのに、急に入れるわけないディズニーランドに入り込み、シンデレラ城に向かって二人で一直線に走っていく。
どんどん人の波を抜けてシンデレラ城に近づいていく走る二人の後ろ姿で映画は終わり。
急に突き放された感覚。
このシーンの意味ってなに。
ディズニーランドは去らねばならない
ディズニーランドにはずっといられない。
上述の新婚旅行夫婦も「宿泊」に来たのです。
ディズニーだって去らねばならないのが分かっている。
よく考えたらムーニーたちの住んでいるモーテルだって、本来は「宿泊」。
ずっと宿泊し続けているだけで、居住しているわけではない。
「居住は出来ない、ここはモーテルだ」と管理人も言う。
逃げ込んだ先がディズニーランドで夢の世界に浸れても、ずっとそこにはいられない。
彼女たち母子の生活は破たんが見えていた。
ディズニーのように「時限付きの二人での暮らし」だったのでしょうか。
現実では行政機関が彼女を母親から引き離すことは確定でしょう。
どうしようもない時「誰か」は助けてくれるのか
監督は是枝監督の「誰も知らない」も参考にしたという。
「誰も知らない」では、親に捨てられ、きょうだいだけで頑張って暮らしを維持するうちに妹が死んでしまい、こどもだけで埋葬し、その後も暮らしが続いていく。
助かる道はどこかにあるはずなのだけど、本人たちには見えないしとてつもなく分かりにくい。
もし見えたとしても、その道が「幸せ」へと続いているか分からない。
ラストでムーニーは児童保護局に保護されれば、満足な食事を与えられ、不潔な環境からも抜け出し、押し売り等の手伝いもせずにすむのでしょう。
でもそれはムーニーにとって幸せではないから逃げだした。
雨に打たれて母親とはしゃいだり、気の合う友達と走りまわったりする日が、徐々に終わりに近づいているのがきっとムーニーは分かっていたと思う。
その現実が受け入れられなかったムーニーを、友達が非現実へと引っ張って行ってくれた。
「手を引っ張って連れ込んでくれた人がいる」ということが重要なのではないかと思う。
ただ、逃げたところで誰も助けてくれない。
せめて、イマジネーションの中で見たこともない「夢の世界」へ行けるだけ。
それでも、二人で逃げた心の世界は幸せなものだったと願いたい。
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