「フーガはユーガ」コインの片側が必要なくなる瞬間

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伊坂幸太郎さんの書下ろし長編小説「フーガはユーガ」を読みました。

フーガはユーガ

伊坂幸太郎感にあふれています。

初期の頃のような読後感で読んでいて楽しかった。

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入れ変わる双子

現実で一卵性双生児の方々と友人になったときのこと。

最初こそ見分けは付かないけど(失礼ですみません)、過ごす時間が増えていくとちゃんと見分けがつくようになる。

同じ遺伝子を持っていようと全く同じ経験をしているわけではなく、その差が顔立ちの差(表情の差?)となって表れてくるのかな。

勿論性格も違いました。

一卵性で同じ遺伝子なのに不思議だなと思うけど、人間は遺伝子だけで出来上がっているわけではないもんね。

小説の中でユーガとフーガの得意分野の違いについて「二人があまりにも同じだから、あえて差を作ろうとしていたのかもしれない」的な一文が出てくる。

しかし同級生のいじめられっ子・ワタヤホコルは「同じ遺伝子を持っているんだから、片方が出来ることはもう片方も出来るはずなんだ」と言う。

ある日の誕生日、二人は入れ替わることが出来るようになりました。

瞬間移動でお互いのいた位置が入れ替わる。

毎年誕生日に2時間おきに入れ替わる。

前述の一卵性双生児の知り合いに当時「入れ替わって親にドッキリをしかけることある?」とベタな質問をしたことがあります。

応えはニヤッとしながら「ある」。

そして「でも母親にはバレる」と。

あの時感じた双子感がこの小説に昇華されているような印象をうけました。

(私は双子ではないため、勝手に感じた双子感です。)

お話の中では入れ替わりにバレて二人が窮地に陥るような日常のシーンはなかった。

中学卒業後「コインの裏表になった」という表現からも、ストーリー上では別人物でもメタ的には同一人物と見てもいいのかなと思う。

自分の中のそっくりな自分、でも自分ではない自分。

いざと言う時に切り替わって暴れるもう一人の自分、どうしようもないけれど時間が来ると入れ替わってしまう自分たち。

最終的にユーガは二人の因縁に決着をつける形で亡くなる。

こういうことって日常で誰の心の中でも起きていると感じます。

一方的に力をふるう者

伊坂さんの小説を読んでいるとたびたび出てくる「一方的に力をふるう者」と「その力を受けざるを得ない物」。

同級生に心を開くことなく二人で耐えてきた中で、信頼できる大人(リサイクルショップのおばさん)・フーガの彼女・ユーガの思い人親子との出会いで変化が訪れたことで綺麗な形ではないにしろ父親を克服していく。

(父親の死と言う形で)

「二人でひとつ」のような生き方をずっと続けていたら、このような変化はなかなか起きなかったんじゃないでしょうか。

「呪いのぬいぐるみ」の件に決着をつけることが出来たのも、昔「ワタヤホコル」をその場の思い付きのような形で助けたから。

そのワタヤホコルの「自分は人と関わらずに生きていける」と言う思いを変えたのだって女性との出会いだった。

出会いを繰り返すことで人と言うのは知らないまに変っていく。

変化が起これば、人の心はいつまでも「一方的に力を振るわれるもの」ではいられない。

人とのかかわりを拒否するうちには気が付かなくても、「関わり」が自分に与える影響は大きい。

人が抱える寂しさと、人と関わることでストーリーが動いていく感じ。

小説を読むのはそういう部分に触れられて好きです。

ユーガが亡くなった理由

例のスキ(びっくりして双子を見比べることで相手に生まれる隙)は、ユーガが死んでしまったからこそ生まれたものです。

生きていればユーガは外へ飛ばされたはずで(おそらくワタヤホコルも連れて)、二人そろうことはなし。

スキは生まれなかった。

物語上二人そろわせるために死んでもらっただけかもしれない。

しかし「因縁を解決すること」=「二人がコインの裏表である必要がなくなった」ように思う。

力を振るわれていた者はみな親になり、今度は自分が力をふるう可能性を持つ側になる。

ユーガがいなくなってしまったからこそ、フーガは自分の娘たちに入れ替わりが起きないよう(苦しみを二人で耐えさせることがないよう)自身を見つめていかないといけないのでしょう。

以上、個人的な感想でした。

フーガはユーガ

 


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